こころとからだの関係性(心身相関)

福岡のドクターオブカイロプラクティック(D.C.)のブログ。

「ひらめき」から生まれる新たな施術法

familychiro 9 月 15th, 2011

今年は、ブレインマップの施術法、経絡の施術法など進化した施術法を紹介してきたが、引き続いて、また、新たな施術法を2つほど開発した。今まで様々な施術法を開発してきたが、その過程は、初めに発想し、臨床現場で何度も繰り返し効果を確認し、改良に改良を重ねながら、さらに他の施術者が使いやすいように、システム化していく。このようにして、実際に研究会で他の施術者に伝えるまでの過程は、数か月から数年に及ぶことがある。

新しい施術法の開発は、最初の「ひらめき」から始まるが、全ての「ひらめき」が効果のある施術法の開発につながるというわけではない。これは、いい施術法になるだろうと予測しても、実際に臨床で試しても効果がない場合も多々ある。

有名なエジソンは、電球を発明するまで一万回失敗したが、エジソンはそのことを失敗とは言わなかったらしい。エジソン曰く、「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけだ」と言ったという。

一般的には、「失敗」という否定的な側面に目を向ける傾向があるが、それを上手くいかない方法を発見したという肯定的な側面に目を向ける人は少ないだろう。大きな発見をする過程において、上手くいかなかった経験がたくさんあればあるほど、学びの深い価値のある発見につながることが多いということはとてもうなずける。

また、アメリカ第26代大統領のルーズベルトは、「間違いを犯さないのは何もしない人だけだ」と言ったという。言い換えると、何か役立つモノを生み出すために、失敗を恐れず繰り返し行動をし続けた人が、間違いを犯したり、失敗したりすることは、価値ある過ちであり、価値ある失敗であるともいえるだろう。

最初から間違いを犯そうとか、失敗しようとして行動を起こす人はほとんどいないだろう。何か価値あるモノを創りだそうとして、失敗してしまうことがほとんどではなかろうか?人間はこの地球に何か価値あるモノを残すために生まれてきたという前提にたつとすれば、間違いや失敗を恐れず挑戦し続けることが、生きることの意味につながるのではないかと思う。

私も様々な施術法を教える立場に立たせてもらっているが、永年、施術法を研究する過程で、以前の手法がほとんど使われなくなることもある。もしかすると、受講者の中にはそれは失敗だったと捉える方がいるかもしれない。そして、そこから進化した現在の施術内容の方が数段進化しており、過去に学んだ受講者よりも今の最新情報を学んだ受講者の方が得をしていると考えるかもしれない。

しかし、過去の学びがあるからこそ、現在の学びが深まるのであって、過去の学習は決して無駄ではなく、とても貴重な学習になっているはずである。と私は考えているが、表面的に役立つ手法だけを学ぼうと考えている受講者にとっては、恐らくその学習は失敗でしかないのかもしれない。

時々、「どのようにして、そのような施術法が開発されたのですか?」という質問を受けることがある。私は、「朝、シャワーを浴びている時などに、ふとひらめくことが多い」と答えたりするが、恐らく脳は、無意識下の深いレベルで探し求めているのだと思う。

しかし、その「ひらめき」が生じる前提条件として、「純粋な心」で求めてないと、不純な動機ではひらめかないような気もするし、たとえひらめいても効果がないように感じる。眉つば的に聞こえるかもしれないが「純粋な心」になっていると、もしかしたら、神、仏、宇宙、誰かわからないハイヤーセルフ的な存在が教えてくれているのかもしれない、とふと思ったりもする。

今年は、PCRT(ニューロパターンセラピー)の研究会のベイシック1でご紹介した進化したブレインマップ、ベイシック2で紹介した経絡治療、そして、まだ紹介していないセルフイメージ施術法の改定版と、ブレインマップを応用した「持続圧」による施術法を、立て続けに開発できた。

今年のニューロパターンセラピー研究会のベイシック1と2でご紹介したブレインマップと経絡治療は、他の治療者からもいい評価を頂いている。10月と12月に行われるアドバンス1と2でご紹介する内容も多いので、新たな施術法を組み込むことが難しく迷うところでもあるが、できるだけバランスよくプログラムを組み込んでご紹介できればと考えている。恐らく今までにない画期的な施術法だと感じてくれる受講者が多いのではないかと思う。

「幸福」とは、変化によって左右される瞬間的な感覚である。

familychiro 9 月 10th, 2011

先日、遠隔治療を希望される患者さんからお電話をいただいた。主訴は昨晩より、発熱、首や腰、その他全体的に調子が悪くなったとのことだった。

「何か思い当たる原因は無いですか?」とお尋ねすると、昨晩、ご主人と今後のことについて話されたとのことで、「色々な努力をしてきても、この先どうなるのか分からない」という不安や恐れの感情が湧いてきて、そのことが影響を及ぼしているのではないか?とのことで、コーチングと遠隔治療を行った。遠隔治療後に症状がやや改善したことで、やはりそのことが影響していたということが分かった。

東北大震災や積み重なる自然災害、さらには世の中の変化のスピードが速くなり、恐らく、ご主人の職場での立場や環境もめまぐるしく変化し、安定感が感じられないというのも一つの要因になっていた様子。大震災後、多くの人達が「幸福」とは何かについて考え、それぞれの「幸せ」に対する価値観が大きく変化したのではなかろうか?大震災では、一瞬にして家も仕事も、そして家族も失うという悲劇が襲いかかってしまった。

もしも、自分にもその悲劇が襲いかかったとしたら、自分はその変化に耐えられるだろうかと想像する人も少なくはないだろう。頭では「もしもの悲劇」に対して覚悟を決めているつもりでも、いざそのような現実が襲いかかると、人間は本能的にどのように感じ、どのような行動をするかその時になってみないとわからない。

「怖れ」や「不安」を感じるのは、先が見えないことで怖くなることが多い。例えば、暗闇を歩きなさいと言われると、恐怖を感じるが、その暗闇にスポットライトが当たって、どこを歩くのかが見えると、恐怖感は少なくなる。何が起こるかわからない未来を、ある程度、想定する、予測するということは、「怖れ」や「不安」を軽減してくれる。

また、変化することに抵抗がある人も少なくはないと思われるが、変化という「ストレス」は、人間にとって大切な刺激になる。さまざまな「変化」には、自然環境の変化もあれば、人間関係の変化もあり、人間はその変化に適応しながら活かされ、その変化という「刺激」によってバランスが保たれている。例えば、人間関係でいえば、常に同じ人と接して、互いの期待度が高くなると、バランスが悪くなり、マイナス面なども目につきやすくなり関係性のバランスが悪くなりやすい傾向がある。

だから、ある程度の距離感を保つことが人間関係のバランスを保つ秘訣であると、賢人たちは教えてくれている。それは、例え夫婦や兄弟であっても、互いに適度な距離感や礼節を重んじていないと問題も生じやすくなる。ご主人が退職して、いつも家にいるようになって、関係性が悪くなったということはよく聞く話でもある。

人間にとって何かを失うということは、辛いことであり、特に肉親を失うということは耐えがたいことだろう。しかし、その一方で、何かを失うことで得るものがあるということも事実である。それは、それぞれの感じ方によって様々であるが、「幸せ度」が高い人は、多くの場合、その感じ方に違いがあるようで、経済的、あるいは物質的な何かに恵まれているというわけではないだろう。もしも、経済的、物質的に恵まれて「幸せ度」が高くなるとすれば、それは一定の時期に限られるだろう。

例えば、美味しい物を食べて、幸せを感じるのは、どれくらいの時間だろうか?毎日、同じ美味しい物を食べるとなると、その幸せ度はどのくらい維持できるだろうか?家族旅行で楽しいひと時を過ごしてその幸せを感じるのは、どれくらいの期間だろうか?毎週、同じ場所に家族旅行に出かけた場合、その幸せ度はどれくらい維持できるだろうか?

あるいは、大きな買い物となる車、あるいは家を購入して幸せを感じるのはどれくらいの期間だろうか?5年後もその幸せ度は維持できているだろうか?立派な家を購入しても、家族関係が悪くなれば、その幸せ度はどこかへ行ってしまうかもしれない。もしかすると、立派な家を購入するしないで、関係性が悪くなったということもあるかもしれない。狭い部屋で家族が寄り添っていた方が良かったということもあるかもしれない。

もしも、家族と一緒に過ごす時間が少ないことが不幸せと感じる場合、どれくらいの時間が必要なのだろうか?少しの時間だからこそ幸せ度が高まるのであって、おそらくずっと一緒に居ると色々な不平や不満がでてくることが多くなるのではなかろうか?

「幸福」を感じるためには、感じ方に工夫が必要であるということ。また、何かを得ることだけが幸福なのではなく、そのプロセスに目を向けることで幸福度が高まるということ。つまり、幸福をつかむために、家を買ったり、結婚をしたり、子供を授かったりということが一般的ではあるが、その後の感じ方次第で、そのことが不幸の元にもなりえるということも想定内にしておく必要があるだろう。

また、多くの場合、何かを得た時にひと時の幸福を感じるが、何かを得ようとして、夢中になっている時や、様々な変化に遭遇するそのプロセスにおいて、充実感、充足感を感じる。そして、そのプロセスにおいてその変化度や難易度が高ければ高いほど幸せ度も高くなるのではなかろうか。

一般的に「安定=変化がない=幸福」かのように捉えがちになるが、変化のない状態程、秩序が乱れるということは、物理学の世界でも証明されている。変化にも許容範囲というものがあるかもしれないが、「ゆでガエルの話」のように、ぬるま湯につかり過ぎると、気づかないうちに不幸な状態になってしまうということもあり得るだろう。

変化を恐れず、変化は幸せや成長への「スパイス」として捉えると、変化に対する柔軟性や適応力も増してくるだろう。また、今、不幸のどん底と感じている場合、その状態がずっと継続し、悪化するという負のシナリオができやすい。しかし、「ほんとうにこの状態が何も変わらずに継続するのだろうか?」と自分に問いかけることで、そのパターンを切り替えるきっかけになるかもしれない。

「幸福」とは、変化によって左右される瞬間的な感覚である。さて、あなたは、一日のうちにどれだけ「幸福」な瞬間を創りだすことができているだろうか?それは、心から「ありがとう」と思える「感謝の心」と密接な関係があるだろう。

「セルフイメージ」の検査、施術の臨床研究

familychiro 9 月 7th, 2011

前回、ご紹介した「セルフイメージ」の検査法や施術法が進化して、昨年度よりもさらに改善され治療効果が上がっている。その「セルフイメージ」が顕著に影響を及ぼしていた患者さんのをご紹介する。今日で5回目の施術になるが、経過は良好で、順調に改善している。

その患者さんは、来院時の問診表には、1年半以上も前から右下肢の痛みが強く、横になっている以外は痛みがあるので日常生活全般に支障をきたしているとのこと。最初に病院を受診し、MRI、CT,等の検査を行い、坐骨神経痛、不安定症?の診断を受け、神経ブロック、投薬、リハビリ(筋力トレーニング)を受ける。その病院では週に一回、半年間通院。その3カ月後、別の病院にて手術。しかし、症状が改善されないまま当院を受診。

初回と2回目の施術にて下肢伸展検査での疼痛がほぼ消失。毎日装着していたコルセットも外すように指導。3回目の来院時の検査では、動きの検査などでは痛みの再現は見られないが、寝ている姿勢から動き出す姿勢、家事全般の動作や歩く姿勢など動作全般のセルフイメージで反応を示す。そして、セルフイメージによる施術を行い異常反応が消失する。

4回目の来院では、セルフイメージをしたままで、過去の疼痛部位に持続圧を加えると反応を示すので、施術を行う。そして、本日5回目の来院では、動作に関連したセルフイメージの反応はぼほ消失。患者さんによると、毎日出かける時などは痛みが強くなると困るので薬を飲んでおり、その場面で影響を受けているかもしれないとのことで、その場面でのセルフイメージの検査をすると反応を示す。そして、そのセルフイメージの施術を行う。

もしも、このような「セルフイメージ」の検査、治療法がなければ、来院時の検査では痛みが再現されないし、神経反射的な検査でも異常反応がでないのに、なぜ患者さんは痛みを訴えているのだろうと悩まされるところだったが、現在ではこの「セルフイメージ」の検査法があるので、患者さんの訴えと検査反応がほぼ一致する。よって、患者さんの訴えもよく理解でき、信頼関係を保ちながら安心して施術ができる。

この「セルフイメージ」の施術法は臨床上とても大きな役割を担うので、次回の心身条件反射療法研究会のときにでも、この進化し改良された「セルフイメージ」の検査、施術法を受講させる先生方にご紹介させていただき、多くの患者さんに喜んでいただければと願っている。

「セルフイメージ」による症状

familychiro 9 月 6th, 2011

慢性症状を抱えている患者さんで、「どのような時に痛みを感じますか?」、あるいは「どのよう時にその症状がありますか?」と質問させてもらうと「いつも痛い・・・」、「常に痛い・・・」「いつもある・・・」というような答えが返ってくる場合があります。

さらに詳しく質問させてもらうと、症状がある場合と、症状がない場合があるのが分かってきます。そして、「症状を感じない時は、症状を忘れている時で、思い出せば必ずある」という表現をされる患者さんもおられます。

症状に意識を向ければ常に症状は存在しるし、意識を向けなければ症状がなくなっているということです。それは、脳が慢性的な症状を常に抱えているかのように、学習記憶している可能性があります。

言いかえると、自分の脳に、私の身体には常に症状があるというレッテル貼りをしている状態であると言えます。心身条件反射療法(ニューロパターンセラピー)では、このような症状を「セルフイメージ」として検査し、施術を行います。

もちろん、常に痛いという表現をしている患者さんすべてが、「セルフイメージ」による症状とは限りません。特に急性期の場合、ある動作をすると必ず痛みがあるとう場合、筋肉の異常緊張、神経機能障害が存在している場合があります。

例え、慢性期であっても、神経系に機能異常による異常緊張からの症状なのか「セルフイメージ」による症状なのかを鑑別検査をすることが大切です。

先日、「セルフイメージ」による典型的な患者さんが来院されました。その患者さんは、三叉神経痛で顔面の痛みが強く、10数年前に手術をされたとのこと。数年後に痛みが再発して同じ医師に相談したが二回目の手術では症状が改善されなかったらしい。ちなみにその外科医の先生は「神の手」をもつ医師としてテレビで有名な先生だったとのこと。

その患者さんは、顔を押しても、叩いても痛くはないが、常に症状は存在するとのこと。実際に触診にて三叉神経が過敏になりやすい部位を圧しても何も感じないという。通常では、三叉神経痛の患者さんは、少しでもその部位を圧すると強い痛みを感じる。

その患者さんによると、外科手術で痛みを感じる神経を切断しているとのことで、痛みを感じなくても当然と言えば当然である。しかし、患者さんに「セルフイメージ」をしてもらったままで、先ほどの顔面の部位を触診すると、先ほどとは打って変わって、強い痛みがある様子。実際に患者さんも症状を訴えるようになった。

これは、末梢の神経系が創りだす痛みではなく、中枢の神経系が創りだす痛みと表現した方が良いのかもしれない。その患者さんに「セルフイメージ」による施術を施すと、先ほどの「セルフイメージ」による症状は消失した。体感したままで押されても痛くはないが、「セルフイメージ」をしたままで押されると強い痛みが生じるのである。

また、珍しい症例で、片方の肩甲骨部や頚部付近を持続的に圧すると、その圧している部位の筋肉や関節が自動的に動き出す。この動きは、患者さんが意識的に動かしているのではなく、無意識的な動きで、圧している間、患者さんの意識では、その自動的な動きを止めることができない。患者さん曰く、自分でも症状なる胸部付近を圧していると、何かに取りつかれたように、筋肉が動きだしてくるとのこと。

この動きも、恐らく中枢レベルの学習記憶だと感じたので、患者さんに「セルフイメージ」にて圧されても動きが止まっているイメージをしてもらうと、その場で、その動きが止まった。

このように脳は、「セルフイメージ」という上位のレベルで、様々な症状を創りだす性質がある。このようなレベルで症状が創りだされるということ自体、一般には知られていないので、不思議に感じる方も多いかもしれないが、心身条件反射療法では、この「セルフイメージ」の検査、治療で様々な症状を幅広く改善している。

「健康は一日にして成らず」

familychiro 7 月 17th, 2011

「ローマは一日にして成らず」という言葉はよく知られていますが、「健康も一日にして成らず」、すなわち「病気も一日にして成らず」で、突然に病気から健康になったり、健康から病気になったりするということはありません。

今まで元気な人が突然倒れて病気になったという話はよく耳にしますが、病気への進行のプロセスは、倒れる前から眼には見えない状態で徐々に進行しており、その積み重ねの結果として明らかな症状や現象が現れたに過ぎません。

また、「ぎっくり腰」や「寝違え」などの急性症状も同じで、単に重い物を持ち上げた、あるいは枕の位置が悪かったという一時的な問題ではなく、物を持ったり、寝たりする前の段階や寝ている間の緊張状態などで、既に筋骨格系、神経系のバランス異常状態が進行しており、そのバランス異常状態のままで物を持ち上げたりすることで、その動作が引き金となって症状を発症してしまうのです。

症状はあくまでも結果であり、様々な原因が積み重ねられた結果です。その原因は目で見てわかる構造的な原因もありますが、それは二次的なことが多く、一次的な原因の多くは、目には見えない生体エネルギーの変化から病気へのプロセスが始まっていることが考えられます。

大きな病気にならないように、まずはご自分の体の調子をよく知ることが肝心です。筋骨格系では肩こりや頭痛、腰痛、関節痛など。内臓系では下痢や便秘など。内分泌系では、生理痛や倦怠感、寝起きのだるさ、何となく体がすっきりしないなど。メンタル系では不眠やイライラ感、気分がすっきりしないなど。このような症状を放置して、その症状に慣れてしまうと、知らず知らずのうちに大きな病気へと進行してしまう可能性があります。

人間の体は飛行機や車などとは比べ物にならない位複雑です。飛行機の整備、メンテナンスを怠ると大参事につながるように、人間の体もメンテナンス的な治療が必要です。目で見てわかる画像診断は定期的な健康診断で可能ですが、目で見てわからない生体エネルギーのバランス調整は、病気の元を改善する、予防するという意味においてとても重要です。

ファミリーカイロで行っているアクティベータメソッドやニューロパターンセラピーは、そのような眼には見えない生体エネルギーバランスの調整にとても効果的な治療法です。自覚症状がある時に限らず、自覚症状がなくてもメンテナンス的に施術を受けることで、生体エネルギーバランスが整えられ、症状を自覚する前の段階で予防することができます。症状が生じてから改善するのではなく、症状が生じないような健康体を創るという考え方が大切です。

ファミリーカイロでは、症状がなくてもメンテナンス的に通院してくださっている患者さんがいます。エネルギー的な視点で検査を行うと、何らかの神経関節機能障害やエネルギー的なバランス異常反応が示されます。このような異常反応は、眼には見えない自律神経系や内分泌系の異常に関係することが多く、早期に改善することで症状や病気、老化の予防にもつながります。

「健康は一日にして成らず」です。病気になる前にコツコツと健康を創り上げていきましょう。

自己犠牲にならないWin-Winの関係性とは?

familychiro 7 月 15th, 2011

先日、ANJのスタッフメンバーとボランティア活動の意義について話し合った。「ボランティア活動の継続が自己犠牲の上に成り立っているのか否か?」というところが議論の大切なポイントだった。もしも、組織のビジョンへの賛同による行動が、自己犠牲によるものであれば、Win-Loseの関係性を作り出してしまう可能性があり、その関係性は長続きしないばかりか、後で禍根を残しかねない、という先を見越した議題だった。

では組織と個人の関係性において、Win-Winの関係性はどのように維持されるのだろうか?人は、個人や組織との関係性において、何かのために行動する。自分自身だけのためであれば、それは自己本位である。それが誰かのため、組織のためとなれば相手本位である。

「自己本位」や「相手本位」のように、どちらかが「得」して、他方が「損」をするというWin-Lose的な二者択一的な考えではなく、どちらも得するという相互依存的Win-Winの関係性をいかに構築することができるかが重要な鍵となる。

例えば、会社と社員の関係性であれば、社員が労働を提供して、会社がそれに見合う報酬を提供するということで健全なWin-Winの関係性が成り立つ。もしも、社員が期待する報酬が得られない場合は、Win-Loseの関係性になりかねない。

ボランティア活動の場合、労働を提供する側には、基本的には報酬という見返りはない。しかしながら、与えることによる喜びや感謝の言葉、あるいは活動によって得た知識や技能などが眼には見えない報酬になるだろう。

この場合、たとえ金銭的報酬はなくても、眼には見えない報酬を得ることで、Win-Winの関係性は成り立つ。もしも、そのボランティア活動が、義務や犠牲の上で成り立っているのであれば、それは、Win-Loseの関係性を創りだす危険をはらんでいるということになる。

眼に見える利益を考えると、すぐに金額的に割り出すことできるが、眼に見えない「喜び」、「感動」、「学び」、「達成感」などの利益は数値的に測ることは難しい。よって、このような眼には見えない報酬を得ているにもかかわらず、眼には見えない報酬というだけで軽視されがちになる。

眼先のことで考えると、眼に見えるお金やモノが大切であるかのように思われるが、長期的にみると、眼には見えないモノの方がはるかに大切で、人の心を豊かにし、その人の成長を保証してくれるように私は思う。

お金で買える喜びもあるが、それは多くの場合、浅く短期的である。その一方で、お金では買えない喜びは、深く長期的である。もしも、このお金では買えない深い喜びに多くの価値を見出すことができれば、ボランティア活動は、Win-Winの関係性を維持できる。

この関係性が本来のボランティア活動の意義であり、その関係性が保てる限り、その活動は継続されるだろう。しかし、このような意義を考えるかどうかは、個人個人の価値観次第である。例えば、「何かのために」というレベルにおいても、個人から家族、会社、組織、地域社会、国、世界とそのレベルには幅がある。レベルの違いは様々であっても、その関係性において、犠牲や義務がともなうWin-Loseの関係性でなく、Win-Winの関係性が成り立っていることが大切だろう。

学生時代、三浦綾子作の塩狩峠という本を読んで、色々と考えさせられたことがある。それは、実際に起きた鉄道事故を参考に書かれた内容で、『1909年(明治42年)2月28日、塩狩峠の区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。』(ウキペディアより抜粋)これは、自己犠牲によって、人の命を助けるという尊い行為である。

国の為に自らの命を犠牲にした特攻隊員も自己犠牲による尊い行為である。さて、この尊い自己犠牲は、単純にWin-Loseの関係性で理解できるものではない。もしも、人やお国の為になることが、自分自身の何かのためになるのであればそれはWin-Winの関係性が成り立つのかもしれない。「命を亡くすこと=犠牲」という単純なことではないそれ以上の何かがあるとすれば、「自己犠牲=Lose」にはならないだろう。もしかすると、命を失う以上の何かを得ていると考えているかもしれない。

儒教やキリスト教の教義において、「義」はとても重要な意味を持っているようだ。「義」が絡んだ用語も色々あり、否定的な用語では、犠牲、義務、肯定的な用語では正義、恩義、大義など。“義”という言葉の意味は、「人としての良心・倫理にかなっていること」「人の道にかなっていること」。そして、それは損得勘定で表現される“利”とは対極的に表現される。

しかしながら、人間である以上、様々なレベルの欲求があるという前提に立てば、「義」に生きることも、個人の欲求であり、個人の「利」に生きることも欲求であり、人や組織、国、世界の「義」に生きるという欲求も、究極的には個人のために生きるということにつながらないだろうか?それを個人のための「利」という言葉を使えば、捉え方によって語弊が生じるかもしれないが、人のためや組織のためになることを提供することで、眼には見えない自分の「利」につながるのではないかと私は思う。

いや、個人の「利」は考えていないと反論する人もいるかもしれないが、レベルの差はあっても人のため、組織のためといっても究極的には自分のためにつなげる方が、義務や犠牲という意味からほど遠くなり、長期的な良い関係性が保たれるように思う。

心身条件反射療法(ニューロパターンセラピー)Basic2研究会

familychiro 6 月 27th, 2011

先日、開催せれたPCRT Basic2の研究会はBasic1に引き続いて全国から多くの先生方にお集まりいただき満席にて活気あふれる二日間を終えることができた。

Basic1を受けていただいた先生方は、ほぼ全員引き続き参加され、2カ月後に開催されたBasic2だったが、進歩されている様子を現場で感じ取ることができた。

今回は経絡を活用した調整法と、全体のプロトコルの活用に仕方をご紹介させていただいた。情報量が多すぎて、時間内に消化できるかどうか心配したが、時間を少しオーバーしながらもだいたいの予定をクリアーすることがきた。

今回の研究会は、特にチーム学習を中心にプログラムを組んでいたので、講義と実技をうまく組み合わせて、頭の理解だけでなく、体感的に学習を進めることができたので、受講者の満足度も高かったように感じる。

また、あらかじめ構成した各チームの振り分けも、うまく機能していたようで、経験者と初心者とのチームのバランスがうまく取れていたように思う。

特に経験者が初心者を指導する場面が増えてきて、「教える立場」を積極的に取っていただくことでさらなる成長につながているということも感じることができた。

「人に教える」ということは、一見自分の知識や技能を単に提供しているだけに過ぎないと思われがちであるが、実はその行動背景には、さらに深い知識や技能を学ぶ要素がたくさん含まれている。人は、教えられることである程度まで成長するが、さらに上の成長をめざすためには、「教える立場」をとることが近道になる。

今回は、実技を中心にしたプログラムを構成することで、チーム内で積極的に学び合う雰囲気がうまく機能していた。今後、本研究会をさらに充実させるために、今回のブログラムをさらに進化させていきたい。

「想像力」は豊かさの源泉

familychiro 6 月 3rd, 2011

治癒することが困難な症状を長い間経験すると、その症状や病気を治すことが人生の目標や目的になることがある。そして、それを治すことに専念するために、仕事を辞め、周囲からも「頑張れ!」と応援され、病気を治すことが人生の生きがいかのようなシナリオができてくる。

そのような負のサイクル、あるいはパターンに入っているかどうかを判断する場合、「その症状や病気が治った後、何をしていますか?」というような質問をするとある程度推測できる。

その質問に対して、明確な答えが出てこない場合の多くは、もしも、病気が完治した場合、今まで病気を治すために歩んできた道のりが閉ざされることになる。そして、病気が完治した時点で、あたかも生きている目的がなくなってしまったかのように錯覚をしてしまうのである。

今までは、病気を治そうとする目的で、自分自身の存在価値を維持していた状態から、病気が治ることで目的喪失状態になり、存在価値までもなくなったかのように錯覚をしてしまうのである。

そのようなパターンにハマっている患者さんは、病気が治ったら好きなことをしたいという漠然としたイメージはあるものの、実際に「何をしますか?」という質問に対して答えられないことが多い。

生きることが精いっぱいだった戦後の混乱期とは異なり、普通に生活して生きていける時代では、人生の目的喪失は大きな問題である。

人生の目的がないと生きていけないわけではないが、人生の質を高めるためには、未来に夢や希望を抱いて、規模の大小にかかわらず、身近な人や社会に役立つことを目的にした方が、人間としての価値を感じ、明るい未来が開けるのではなかろうか?

未来に希望がないということは、例えていうならば、暗闇の中をさまよっているようなもので、不安が募るばかりだろう。目的とは、その暗闇にスポットライトを当てて、道をつくるようなもので、安心して一歩一歩歩いていくことができる。

「ガン」や「難病と指定された病気」などの宣告を受けると、「一生を病気のために戦う」といったパターンにハマってしまい、治る病気も治らないという負のサイクルから抜け出せないケースが多いように感じる。

そのような患者さんの場合、「病気が治ってから、次の目的を考える」という思考パターンが多いので、あえて、「病気が治ったという前提で、その後には何をしていますか?」という質問をさせていただく。

闘病生活のパターンにハマっている多くの患者さんは、その質問にすぐに答えることが難しく、答えられても抽象的な答えが多く、具体的な行動に結びついていないケースがほとんどである。すなわち、闘病生活自体が人生の目標になって、負のサイクルを繰り返しているのである。

一方、例え難病の診断を受けた患者さんでも、具体的な行動に結びついた未来のビジョンが描ける患者さんは、その難病を克服したかのように経過が良好で未来が明るい。

未来を想像することには、実質的には何も失うものはなく、想像力をフルに活用していただければ良いのだが、闘病生活の負のサイクルにハマってしまっている患者さんにとって、具体的な行動に結びついた明るいビジョンを描くのはとても困難な場合がある。

その場合、明るい未来のビジョンを描くためのコーチング的なサポートが効果的である。しかし、それも患者さんが望まなければ、こちらの一方的な押し付けになり、効果は得られない。よって、そのようなコーチング的なサポートができるという情報を提供して、後は患者さんから求められることを待つしかない。

さらに、コーチングの基本条件として、患者さんが望む「理想」がなければ始まらない。それも「病気を治す」や「症状を無くす」、あるいは「問題を解決する」という理想では負のサイクルから抜け出せない場合が多い。つまり、病気や症状、あるいは問題が解決した後、何をしているかという負のサイクルを抜け出した後の時点での理想である。

アインシュタインは「想像力は知識よりも大切である」というメッセージを残した。この意味は、知識が想像力よりも劣るとか役に立たないとかいう問題を指摘しているわけではないだろう。想像力を作り出すためには知識がないと創りだせないのも事実である。

アインシュタインほどの天才が、知識を最高レベルに高めても、知識には限界があり、それを超えるためには、知識ではなく「想像力」が大切であるということを言っているのだと思う。

自分の人生を決める「想像力」を高めるためにはどうしたらよいのだろうか?まずは、上記のように「知識力」や「情報力」を高めることが必要だろう。ただ、知識や記憶力が高い、いわゆる頭が良いタイプの人は、情報量は豊富だが、今の時代、そのような情報はパソコンで検索すればすぐに引き出せるし、誰かの受け売り情報である場合は、あまり魅力を感じない。

それよりも、幅広い知識や情報を持ち備えているわけではないが、突然、思いもよらない発想をする人は魅力があり、その人の「発想力」や「想像力」によって引き寄せられる感じがする。そのような人は時折、情報不足や知識不足だったりして、ピントがずれている感じがする場合もあるが、やはり頼もしい。

「想像力」は、人生の質を高め、こころを豊かにする源泉になるようだ。

「慢心」は「成長の天敵」

familychiro 5 月 12th, 2011

人や組織が成長する際、一番の敵は「慢心」であるということをつくづく感じさせられる。先日、職場でのミーティングで、この「慢心」について、話し合ってみた。

一般的に人は褒められると慢心に陥りやすいが、「自分で自分を褒める」ということが一時期、世間ではやったことがあった。「褒めること」=「慢心」というわけではないが、その人の受け止め方によっては、慢心して自分の成長をストップさせることも少なくはないだろう。

特に子供の場合、褒めて育てることが重要視されるが、それも子供の受け止め方によるだろう。親や指導者は、その子供が褒めて伸びる子供なのか、褒めると慢心して成長にブレーキをかけてしまう子供なのかをしっかりと見極めて、一人一人の子供に応じて指導することが大切だろう。

褒めることにつながる「評価」を、表に現れる「顕在的評価」、表には現れない「潜在的評価」として分類してみた。顕在的評価とは、一時的な褒め言葉や報酬(給与やボーナス)、表面的な肩書、あるいはその肩書に対する建前的な態度など。その一方の潜在的評価とは、表には現れない非言語的な態度や長期的な評価、例えば、魚を一時的にもらう代わりに、魚の釣り方を厳しく指導してもらいその成果によって長期的な報酬を得るという評価のされ方などが、潜在的評価に属するだろう。

「慢心」と「自己満足」にはつながりがあり、この「自己満足」にもレベルがあるということについても深く考えてみた。「自己満足」という言葉は、一般的にネガティブにとらえられがちだが、人に役に立ちたい、社会に貢献したいとうい意思も究極的には自己満足といえるだろう。

人が喜ぶことが自分自身の喜びであるという高いレベルの自己満足なのか、自分自身だけが喜べばよいという自己中心的な低いレベルの自己満足なのか、「自己満足」にも質的レベルがあるということである。そして、この「自己満足度」の質が高ければ高いほど、まだまだ自分の貢献が足りないなという反省や謙虚さにもつながり、「慢心」に陥るレベルが低くなるということが考えられる。

例えば、「今日も一日、よく働いて、よく頑張った」と、自分で自分を褒めてあげて、さらに「なぜこんなに頑張っているのに私のことを誰も褒めてくれないし、評価もしてくれないのだろう」と不満を漏らす人。その一方で、「精一杯頑張っているけれども、まだまだ工夫すれば、もっと多くの人たちに喜んでもらえるのでは・・・」と考え、努力を惜しまずに行動する謙虚な人とでは、どちらの人の方が幸福の連鎖を生みだすことができるだろうか?

「自己満足度」の質のレベルが高ければ高いほど、謙虚さが生まれ、慢心する危険度が下がるということにつながるだろう。そのような意味も含めて、目的や目標の質が高ければ高いほど人を謙虚にし、慢心の危険度は下がるだろう。

目的や目標の質が高すぎて、実感がわかないのも不安定にさせるが、目的や目標が低すぎると、頂上に立った時には、すぐに自己満足して、後は下るだけ、あるいは、その頂上に固執し過ぎて、それが不安定のもとになることもあるかもしれない。

目的、目標の道のりは人それぞれに様々であるが、目指す山は、一生をかけても到達しきれない質の高い山(ビジョン)で、しかも、着実に一歩一歩近づいていることを実感できる道のりが理想的ではないだろうか?

特に組織などの業績が悪化する要因、すなわち不成功の元の多くは「慢心」によるものだといわれている。それは、組織に限らず、個人にも当てはまることで、「慢心」は「成長の天敵」だといえよう。

今回のミーティングで取り上げた「慢心」というテーマによって、スタッフとともに話を深めることができたことはとても有意義で、学びの多い貴重な時間となった。

慢性痛は「脳の学習記憶」

familychiro 5 月 10th, 2011

先日、1年ほど前に激しい交通事故に遭遇し、10回ほどの施術でかなり改善してはいるものの、時折、仕事に集中したり、何かの問題を解決しようと考え込んだりすると、交通事故によって負傷した腰部や下肢部に痛みがぶり返す。

施術後にはほとんど症状が改善されているのに、メンタル的なストレスで痛みがぶり返すような現象を何度か体験されると、患者さんは、何か症状を偽っているかのようで、何か嫌な気持になると話されていた。

慢性症状を抱えている患者さんの多くで、肉体的に身体に負担を掛けるわけでもなく、思い当たる原因もなく、痛みがぶり返したり、ぶり返されなかったりの状態を繰り返すという患者さんも少なくはない。

そのようなとき、それは、脳の深いレベルでの学習記憶の仕業であって、偽りや大げさではないということを分かりやすく説明するようにしている。

慢性症状の特長として、一度、肉体的に障害を受けると、様々なストレス刺激によってその部位に症状をぶり返すという傾向がある。一度症状が改善していた期間があるにも関わらず、異なるストレスが生じると、同じ部位の症状が生じるという患者さんは少なくは無い。患者さんに、「原因のストレスは以前と異なるのに、なぜ、同じ部位に症状がでるのですか?」と尋ねられることがあるが、一度、障害を受けた部位は、敏感にストレスを受けやすいというお答えしかできない。

このような同じ部位に症状がぶり返されるパターンも一種の学習記憶なので、その学習記憶を変えることができれば、その部位がストレスに対して過敏にならないようにはできるはずである。いくつかの症例で、同じ部位に繰り返されないような施術を試み、良い成果がでてはいるが、「同じ部位に症状がぶり返すというテーマ」は今後の研究課題でもある。

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